クラウド回帰は潮流か、条件付きの選択か
自社データセンターへ処理を戻したという事例が報じられるたびに、「クラウド回帰」という語が使われる。語が流通していることと、現象が全体の潮流であることは別である。公開されている事例には、参照する前に確認しておくべき偏りがある。
議論の起点
2021年、Andreessen Horowitz の Sarah Wang と Martin Casado は「The Cost of Cloud, a Trillion Dollar Paradox」を公表した。要旨は、成長初期にはクラウドが合理的だが、規模が大きくなるとインフラ費用が粗利を圧迫し、株式市場からの評価にも影響しうるというものである。
この論考は、それまで暗黙に前提とされてきた「クラウドは常に安い」という命題に反例の可能性を提示した点で影響力を持った。ただし同時に、彼ら自身が注意を促しているとおり、これは規模と負荷特性に依存する条件付きの主張である。
二つの実例
Dropbox は2015年から2016年にかけて、大部分のファイル保存基盤を自社設計のインフラへ移した。同社が公開した技術情報によれば、保存容量が桁違いに大きく、アクセスパターンが予測可能であることが、専用ハードウェアを設計する経済的な合理性を生んだ。
37signals(Basecamp などを運営)は2022年、David Heinemeier Hansson の署名記事「Why we’re leaving the cloud」でクラウドからの撤退を表明した。同社の主張の中心は、サービスの負荷が安定しており、クラウドの弾力性という主要な便益をほとんど使っていない、という点にあった。
両者に共通するのは、次の条件である。
- 負荷の変動が小さく、余剰容量を抱える無駄が少ない
- データ量または処理量が、専用設備の固定費を償却できる規模にある
- インフラを運用する人員を自前で維持できる
公開される事例の偏り
ここで方法論上の注意が要る。移行に成功した組織は、その経験を技術ブログや講演で公開する動機を持つ。移行を試みて断念した組織、あるいは移行後に運用が破綻した組織は、そうしない。
したがって、公開事例を集めて傾向を推定する手続きは、選択バイアスを含む。「回帰が増えている」という観測は、「回帰について語る組織が増えている」という観測と、公開資料の上では区別できない。
反論:条件付きでも判断は必要だ
バイアスの指摘は、事例を無視してよいことを意味しない。条件が明示されている事例は、自社の条件と照合することで使える。Dropbox の条件が自社に当てはまらないなら、その結論も当てはまらない。それだけのことである。
むしろ問題は、事例が条件抜きで引用されることにある。「あの会社も戻した」という一文は、負荷特性と運用体制の記述を落としたとき、判断材料としての価値をほとんど失う。
比較すべき量
費用比較で最も見落とされやすいのは、機器と回線の費用ではない。運用人員の人件費と、その人員が別の仕事をしていれば生んだであろう価値である。クラウド事業者に支払う料金には、この二つが含まれている。
加えて、弾力性の価値は平時にはゼロに見える。需要が予測を外れたときにだけ回収される保険料であり、外さなかった期間の支払いは無駄として記録される。保険の価値を事後的に評価すると、常に過大な支払いだったように見える。
この構造は、推論コストの議論と同型である。単価の比較は容易で、総費用の比較は難しい。そして総費用の大部分は、それを運用する基盤と人の側にある。回帰か否かという二値の問いは、この配分の問題を覆い隠してしまう。
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